2023年度に武蔵野大学環境システム学科はサステナビリティ学科へ発展的に改組しました。このサイトでは、環境システム学科における過去の活動記録を紹介します。

一方井誠治教授の「新環境政策論」第1講

宇沢先生との出会いと環境行政への道

今回は、まずもって、 宇沢弘文先生から私が受けた影響やそのお人柄などを若干なりともお伝えしたいと思います。

若き宇沢先生の試行錯誤
私が宇沢先生に初めてお目にかかったのは、東京大学の経済学部に進学した1972 年の春、宇沢ゼミの面接試験のときでした。 その頃の私は、先生が極めて高い業績を上げられている世界的な経済学者であることはおろか、自分自身が今後何をなすべきかもよくわかっていないままに、専門分野と紹介されていた 「理論経済学」 にひかれてゼミの門をたたいたのです。

その後、2002 年に日本経済新聞に書かれた 「私の履歴書」 で、宇沢先生ご自身も経済学者になるまで、ずいぶんと悩まれ、試行錯誤をされたことを知りました。簡単にご紹介すると、府立第一中学では、数学が好きで、すでに数学者高木貞治先生の『解析概論』などを独学で勉強されていました。 医者を目指して入学した旧制一高の理科乙類では、ゲーテをはじめ人文・社会科学の勉強もずいぶんとされたそうです。 しかしながら、一高時代の最後に、医師という職業が自分には向いていないのではと思い始め医学部進学を断念し、東大の数学科に進学されました。数学科の3 年間は充実した楽しい時だったそうで、1951 年春の卒業後には指導教授の勧めで、特別研究生として大学に残ったものの、戦後日本の混乱期に一人数学を勉強することに人間として苦痛を感じ、また、たまたま読んだ経済学者川上肇の『貧乏物語』にも感化され、経済学に本気で取り組まなければならないと思い始められたそうです。 指導教授に無理を言って数学科の研究生を辞め、文部省の統計数理研究所で1 年余り勤め、その後生命保険会社に入社したものの、会社や労働組合と折り合わず辞めざるを得なかったということもありました。 その後、一人で経済学を学び始めたところ、ラグビー部の先輩で当時、 都立大学の助手だった稲田献一先生らの指導を得て、ケインズの一般理論はじめ経済学の古典を改めて勉強し直すとともに当時米国で発展しつつあった数理経済学の研究を進められました。 その過程で、後にノーベル経済学賞を受賞したケネス・アロー教授に認められ、1956 年にスタンフォード大学のアロー教授の研究助手として渡米され、宇沢先生の経済学者としてのスタートが切られたのです。先生が28 歳のころでした。

宇沢ゼミでの日々
その後、 宇沢先生は、 当時米国における経済学研究の中心の一つであったシカゴ大学に招かれ、弱冠36 歳で教授に就任されました。 シカゴ大学でも経済理論の分野で大きな業績を残されたものの、ベトナム戦争にまい進する米国での生活に苦脳を覚えられ、1968 年に東大の経済学部教授として日本に戻られました。

今から思うと、私が宇沢先生に初めてお会いしたのは、先生がまだ44 歳のころ、米国から戻られてまだ4 年という時期であり、学者としてまさに全力で研究されていたころだったと思います。 そのような情報があまり伝わっていなかった理由として、当時の東大紛争で、入学試験が中止となり、ゼミの一年上の先輩がいなかったこともあったと思います。

さて、10 人余りの仲間とともに開始された宇沢ゼミの内容は、私の予想をはるかに超えていました。 覚えている一つのパターンは、先生が黒板に向かって、難解な数式や図を延々と書いていき、ゼミ生はひたすらそれを筆記していくものでした。 これはもう、ゼミ生に経済学を教えるというものではなく、おそらくは、先生ご自身が日々考えておられる研究の内容をゼミ生の前で展開するというものではなかったかと思います。今から思うと、当時は先生が新しい経済理論の動学化に傾注されていたころであり、私のそれまでの数学や経済学の知識ではそれを理解することはほぼ不可能でした。 しかしながら、後に大学院、イエール大学留学を経て経済学者になった同期のゼミ生の浅子和美さんや吉川洋さんらは、先生の意図を理解し、ゼミとは別に数学の勉強を進め、先生の講義に食らいついていっていました。 ただ、先生のその数式の展開は、途中でたびたび挫折し、それまで書かれた板書をあっさり消してしまわれることも多かったと記憶しています。

もう一つのパターンは、先生がこれぞと思われる論文 (ほとんど英文) をゼミ生に配り、その内容を順番に報告させるというものでした。 私も頑張って論文を読みこみ、黒板の前で報告を始めたものの、 ものの3 分の1 も進まないうちに先生から 「あ、 ごめん。その論文ハズレだった。 もういい」 と言われてあぜんとしたことがあります。

ゼミの後は、先生とゼミ生が連れだって飲み会に移行するのが常でした。先生はともかくビールがお好きで、一人でさまざまなお話をされながら延々終電が無くなるまで飲み続けられました。ところが、私自身は、まったく酒が飲めず、ひたすら先生のお話を伺うだけの学生でした。それこそ、改めて振り返ると、よくぞそのような状況で宇沢ゼミに3 年間も在籍できたものだと思いますが、私自身は、やめたいと思ったことは一度もありませんでした。

その理由は、間違いなく先生ご自身の放たれる魅力であったと思います。 松下さんも触れられている岩波新書の 『自動車の社会的費用』 が出版されたのは、私がゼミの3 年目に入った1974 年ですが、 この本は、単に自動車の社会的費用を算出してみせた本ではなく、 自動車を野放図に走らせている日本や米国が、交通事故や犯罪、そして環境破壊などの面で市民の基本的権利を損なっていることを深く憂い、その背後にある経済学の新古典派理論がいかに非現実的な前提に立って構築され利用されているかについて鋭く批判をしたものでした。いわば、先生ご自身が立脚してきた経済学そのものをある意味否定されて、それを立て直すべく、社会的共通資本という概念を中心に据え、人間が人間らしく幸福に生きることのできる経済理論の再構築に果敢に挑戦を始めた、苦悩と試行錯誤の報告の書でもあったのです。

また、先生は世界中から先生に会いに来られる経済学者の訪問など、機会を捉えては、たびたびご家族のおられる保谷のご自宅にゼミ生を呼ばれました。要は、私のような誠に出来の悪い学生にまで、先生は貴重な時間を割いて人間的な付き合いをしてくださったのです。 ちなみに、ゼミの後の飲み会の費用はいつも先生が全額払っておられました。

宇沢ゼミの卒業タームペーパー
私にとってゼミでの数式は正直難解でしたが、『自動車の社会的費用』 でも端的に示された、宇沢先生のおっしゃりたいことは、ゼミの後の飲み会の場でのさまざまなお話と相まって、私にはよく理解できるような気がしました。当時、私は東京近郊に残された武蔵野の雑木林を歩くことがとても好きで、それは人間の幸福感の最も重要な構成要素の一つと感じていたのですが、その雑木林が経済成長の過程で当然のごとく急速に失われていく日本の社会経済の行く末に大きな不安を抱いていました。

そのような状況の中で、宇沢先生のお話をひたすら伺ううち、いつしか私の中で、 自分の進路は、当時創設後まだ間もない環境庁であると思い定めるようになりました。通常より1 年遅れで、 ようやく環境庁入庁の内定を得た私に、先生は 「一方井君、役所というところはお酒が飲めないと偉くなれないのよ」 と心配して下さり、次いで、にやりと笑って「でも酒が飲めるからといって偉くなれるわけじゃないのね」 といかにも先生らしい励ましの言葉をかけてくれました。

ゼミを卒業するに当たり、人はなぜ武蔵野のような身の回りの美しい自然を守ることができないのかという疑問に対し私なりに全力で考え、それをタームペーパーにまとめ先生に提出しました。 もとよりそれは大したものではなかったと思いますが、その後 「一方井君のあの武蔵野のペーパーは良かったよね」 と事あるごとにかけていただいた先生の言葉は、 その後の私のさまざまな仕事の上で大きな心の支えとなりました。

※地球・人間環境フォーラム発行「グローバルネット2015年8月号」掲載、連載「21世紀の新環境政策論~人間と地球のための持続可能な経済とは」の記事を転載


一方井誠治(いっかたい せいじ)教授のプロフィール

1974年東京大学経済学部卒、75年環境庁(現環境省)入庁、 外務省在米大使館などを経て、2001年環境省政策評価広報課長、03年財務省神戸税関長、05年京都大学経済研究所教授、12年武蔵野大学環境学部教授、15年より武蔵野大学工学部環境システム学科教授 兼 武蔵野大学大学院環境学研究科長。京都大学博士(経済学)。環境庁計画調査室長として、94年版と95年版の環境白書を作成。専門分野は地球温暖化対策の経済的側面に関する調査研究、環境と経済の統合。著書に「低炭素化時代の日本の選択-環境経済政策と企業経営」など。